映画ファン集合! 自分が見て感動したり、人生観を変えたような映画について語り合いたいと思います。 また、DVDのコレクション紹介とかーーーー。

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アメリカ裏社会に君臨した男、ジョージ・ユング

ブロウ

製作年度: 2001年  ドラッグ・マーケットを描いた、アメリカン・カルチャーの舞台裏       
監督: テッド・デミ  製作総指揮: ジョルジア・カサンデス  製作: テッド・デミ/デニス・レアリー/ジョエル・スティラーマン  原作: ブルース・ポーター  脚本: デイヴィッド・マッケンナ/ニック・カサヴェテス  音楽(挿入曲): ローリング・ストーンズ/クリーム/フェイセズ/マンフレッド・マン/ボヴ・ディラン/レイナード・スキナード/KC&ザ・サンシャイン・バンド/マーシャル・タッカー・バンド他
キャスト: ジョニー・デップ/ペネロペ・クルス/ポール・ルーベンス/フランカ・ポテンテ/レイチェル・グリフィス/レイ・リオッタ

 デップが演じるジョージ・ユングとは、1970年代に実在した麻薬ディーラーである。つまり、この作品は実話を元にアメリカ裏社会を描いた、アメリカンカルチャーの舞台裏ドラマである。
監督のテッド・デミは、若くして伝説的な麻薬ディーラーにのし上がったユング(ジョニー・デップ)の驚くべき、かつ人間的な一代記を描く事で、アメリカンドリームや悲痛な愛のドラマを引き出している。
これは、単なる「麻薬撲滅運動」のメッセージやコカインを巡るアクションの素材とは、異にした人間ドラマである。

 ”ブロウ”とは、マリファナやコカインなどのドラッグ吸引を意味する俗語であるが、人生の満開状態でもあり、また奈落への運命の一撃をも意味している。

 幼少時代、極貧を経験したジョージ・ユングは、1960年代後半、カリフォルニアでドラッグの密売をはじめ、みるみる商才を発揮してのし上がってゆく。一時は、投獄されながらも、獄中で裏社会の大物に出会い、彼の信頼を得たことで、ユングの名はますます轟くことになる。70年代後半、彼の提供するコカインはバブル期のアメリカにおいてパーティー・ライフの必需品と化した。またその頃、マーサ(ペネロペ・クルス)に出会い、2人は結ばれ娘をもうける。成功してからの彼は、裕福で派手な生活をしていたけれど、不安定であったし、後ろめたさと一緒に生きていた。

 結局、ユングの人生は、80年代に入ってから凋落していく。彼は熱烈に娘を愛するが、足を洗おうとしても裏社会から抜け出せず、何度も服役し、妻と娘の愛を失う。晩年、彼が気付く「家族の大切さ」。それは、彼がいくら大金を手にしても、手に入れられなかった本当の幸せである。「金なんて幻だ」と言った父親の言葉が実に印象的だ。この父親の言葉を理解するまでに、何十年もの歳月を要し、「命を浪費してきた」と悔いることになるユングの人生は、あまりに切ない。
 彼は今も実際服役中。2014年までの服役となっている。ある日、初めて面会に来てくれた娘を抱きしめるのだが、それは幻だった。

 若き日のユングを演じるデップ。60年代に流行したマッシュルームカットが良く似合い、セクシーである。
自分のレビューでもこれまで紹介した”エド・ウッド”と”フェイク”に続き、実在の人物を演じたデップであるが、無理なくそれらの人物に成り切ってしまうのが、彼の妙である。しかも、重々しくならず自然にクールに演じる所が、カメレオン役者と称される由縁であろう。

 一方、ユングの妻マーサを演じるペネロペ・クルスも自分の好きなサルマ・ハエックと並ぶスペイン系美人女優である。トム・クルーズやニコラス・ケイジなどの大物男優と共演している。

 この作品は、アメリカの70年代を背景にしているが、この時代にコカインが急速に広まった理由として、相次ぐ要人の暗殺、ベトナム戦争の泥沼化などによる60年代の閉塞感から逃れるためのマリファナというドラッグから、より洗練されたイメージを持ち、かつ、より危険なドラッグが好まれるような「カウンター・カルチャーの成熟」が挙げられると思う。
 時代は、喧騒な60年代、荒削りなものから宴の後として、洗練されたものや肩の力を抜いたものを求める時代へと移行していったのである。

 ユングが、ドラッグ・ビジネスの成功への第一歩を踏み出したのは、解放感に溢れたウエスト・コーストの地であった。当時の西海岸は「アメリカン・ニューシネマ」時代に入りつつあったハリウッド映画産業界や音楽界でも多くのシンガー・ソングライターを生みだした。その背後にドラッグ・カルチャーがあった事は、広く知られている事実である。
「アメリカン・ニューシネマ」の代表作”イージー・ライダー”は、コカイン取引から始まっているし、70年には、ロックの女王ジャニスジョプリンやドアーズのジム・モリソンが、ドラッグの摂取過剰で、この世を去っている。
 
 ジョージ・ユングの旅は、60年代の純真さから70年代の退廃、そして80年代以降の報いと償いへと続いた。こうした変遷を演じるデップ。全編に流れるロックの音楽と共に、まさに自分が生きてきた時代を一大叙事詩として語り尽くした作品である。
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デップの監督デビュー作

ブレイブ

製作年度: 1999年  ネイティヴ・アメリカンの男の最期の日々を描いたドラマ   
監督: ジョニー・デップ  製作総指揮: ジェレミー・トーマス
原作: グレゴリー・マクドナルド  脚本: ポール・マクガドン/ジョニー・デップ/ディ・ピー・デップ   音楽: イギー・ポップ 
キャスト: ジョニー・デップ/マーロン・ブランド/エルピディア・カリロ/マーシャル・ベル/フレデリック・フォレスト

 この映画は、俳優ジョニー・デップの初監督作品であるが、デップは監督だけでなく、実兄ディ・ピー・デップ と共に脚本も書き、主演もこなしている。地味な作品だが、デップの新境地と言えるだろう。大物マーロン・ブランドも友情出演している。

 デップは、貧困な生活にあえぐネイティヴ・アメリカンの役を演じ、自分の命と引き換えに家族のために大金を手にする。
 寂れたビルの一室から現れる謎の男マッカーシー(マーロン・ブランド)。カメラは、敢えて全体の色彩を殺し、暗い不気味なイメージを演出している。ブランドの不気味さもよく出ている。そして、彼が持ちかけた恐るべき話とはーーー。
 結局、ラファエル(ジョニー・デップ)は、マッカーシーの申し出を受け入れ、己の命と引き換えに5万ドルを手にする決心をする。明日の糧を得る職もなく、村は大企業の買収を受け、追い立てが迫っていた。ラファエルは、自分が身を捨てることで得た金5万ドルで家族と村を救ってくれと神父に嘆願する。
残された期限は1週間。彼は、妻リタ(エルピディア・カリロ)と息子たちを精一杯愛し、庭に小さな遊園を作り、村の人々とも祭りを楽しむ。
そして約束の日、静かに村を去り、死に場所であるビルの一室へ向かうのだった。

 これはタイトル通り、愛する者のために命を捨てる男の”勇気”がテーマとなっている。全画面、色彩を殺し、淡々と時間が経過していく。死に向かっての厳かな儀式のごとく。救いはない。
 自分は、愛する者のために命を捨てられるであろうか?大いに考えさせられた。
バートン&デップコンビの第2弾

エド・ウッド

製作年度: 1994年 史上最低映画監督といわれたエド・ウッドの伝記映画
監督・製作: ティム・バートン 脚本: スコット・アレクサンダー  製作総指揮: マイケル・レーマン
キャスト: ジョニー・デップ/マーティン・ランドー/サラ・ジェシカ・パーカー/ビル・マーレイ                       パトリシア・アークェット/ジェフリー・ジョーンズ/ヴィンセント・ドノフリオ
音楽: ハワード・ショア

 ”シザーハンズ”でコンビを組んだ監督ティム・バートンと主演ジョニー・デップの第2弾である。
 この映画は、史上最低の映画監督と言われているエドワード・D・ウッド・Jr.通称エド・ウッドの奇想天外な半生を描いた伝記映画だ。
 
 何故彼が、史上最低の映画監督と謳われたのか?製作した映画がすべて興行的に失敗した為、常に赤貧にあえぎ、貧困のうちに没したからだろうか?作品が陳腐な怪奇映画とポルノが多かったからであろうか?
彼の映画よりも退屈で面白くない映画はざらにありそうだ。また大ヒット作であっても、見る人によってはエド・ウッドの映画にも及ばない駄作と感じることも考えられる。むしろ彼のファンと言われる映画監督にはティム・バートンを始め、ジョン・ウォーターズ、デヴィッド・リンチ、サム・ライミ、クエンティン・タランティーノなど、いずれも映画オタクが高じて自ら監督となった人間が多い。
彼の『史上最低最悪』という冠は、ある種の称号と見て良いであろう。

 エド・ウッドを演じるデップの表情が実に豊かだ。自分の作品に情熱を傾け、映画化するためのスポンサー探しに必死になる。常に低予算に縛られるため、大した役者は使えない。自分の恋人や友人を出演させざるを得ない。挙句の果てに峠を越えた往年の怪奇スターであったベラ・ルゴシ(マーティン・ランドー)と知り合い有頂天になって、彼を主役とした脚本を持ち込むが、今さら誰も相手にしてくれない。それでも彼は、今では誰も振り返らないルゴシのファンであり続け、彼との友情と尊敬の念を貫き通すのであった。

 この映画は、エド・ウッドの時代(1950年~60年)を再現するため、敢てモノクロで録られている。今では、全く陳腐に見える怪物を登場させたり、まるで学生が趣味で撮るような画像である。
自分は、実際のエド・ウッドの映画は観たことはないが、この映画を観る限り、彼は、観客の事を考えるより、自分の好きなテーマを自分の好きなまま録り続けた監督なのだと思う。
 
 時代の変化も考慮せず、周囲の声にも耳を貸さず、ひたすら自分の道を突き進んだ人だと思った。ある意味では信念の人であり、完全なオタクだったのだと思う。その辺をデップは、実にうまく演じている。目の輝き、あるいは受け入れられない悲しみ、女装趣味に恋人にも呆れられて去られてしまう。本人は、至って真面目なのだが、かえってそれが滑稽にさえ見える。

 この映画は、若い頃からエド・ウッドのファンだったというバートンが、デップと共に故エド・ウッドに捧げたオマージュであろう。
 バーで出会った尊敬するオーソン・ウェルズ(ヴィンセント・ドノフリオ)に諭された「夢のためなら闘え。他人の夢を撮ってどうなる?」という言葉が印象的であった。
ファイブ・イージー・ピーセス

1971年 仕事からも家庭からも、愛することさえからも離反する無目的に生きる男の姿を描く
      最後のアメリカ・ニューシネマ
監督 : ボブ・ラフェルソン  製作 :ボブ・ラフェルソン/リチャード・ウェクスラー  
脚本 : アドリエン・ジョイス ストーリー:ボブ・ラフェルソン/アドリエン・ジョイス
キャスト : ジャック・ニコルソン/カレン・ブラック/ビリー・グリーン・ブッシュ/ファニー・フラッグ
主題歌 : スタンド・バイ・ユア・マン/ディボース/あなたが心を燃やす時(タミー・ウィネット)

 ファイブ・イージー・ピーセスとは、”五つの易しい曲”という意味だが、冒頭タイトル・バックに流れる”スタンド・バイ・ユア・マン”をはじめ、タミー・ウィネットが歌うカントリー・ソングは、4曲しか挿入されていない。となると、ショパンやモーツァルトのクラシックのピアノ曲5曲を指しているのであろう。

 主人公ボビー(ジャック・ニコルソン)が、テキサスの油田で働く姿をスケッチしながら、この映画は始まっている。
彼の育った家庭は、クラシックの音楽一家であったが、彼はピアニストとしての将来も家庭も、そして自分自身も捨ててしまった。彼にとっては、決して”易しい曲”ではなかったのだ。

 彼の恋人レイ(カレン・ブラック)にとっての”イージー・ピーセス”は、カントリー・ソングである。つまり、この映画は、ボブ一家のクラシック党とボブの恋人や友人のカントリー党とを対比している。
両者は、相手の嗜好を全く理解しようとはしない。特に前者は、クラシックだけが音楽と信じ、大衆音楽の価値を認めないばかりか、後者の人間までを軽蔑している。

 自分も音楽は好きだが、良いものはジャンルを超えて良い。クラシックだって演歌だってその表現方法が違うだけなのだ。その”こころ”は同じだが、人によって安らぎ方が違うだけだと思っている。
 
 ボビーは、石油採掘現場でその日暮しを送っている。ある日、町の放送局へ姉のティタ(ロイス・スミス)を訪ね、父が卒中で倒れたことを知る。
恋人のレイを連れ、車で実家に向かう。途中、アラスカに向かう二人連れの女ヒッピーに出会う。
「アメリカは、ゴミに溢れている。ゴミがどんどん増えて汚れてきている。人間の住む所ではなくなってきている。人間も不潔だ」と、彼女らに言わしめるラフェルソン監督だが、「本物のアメリカを求めて」と口走る”イージー・ライダー”の主人公たちの空々しさは、この映画のテーマではない。
 主人公ボブの生き方は、もっとやるせなく、救いようがない。病める母国を批判や攻撃するでもなく、そこから抜け出すことしかない。
 実家に戻ったボブは、兄嫁のキャサリン(スーザン・アンスパック)と関係を持ってしまうが、彼女から「自分も仕事も他人も愛せないあなたが、なぜ愛を求められるのか?」となじられる。このときのニコルソンの表情。屈辱の怒りと悲しみと淋しさーーー。
 車イスに座ったまま物言わぬ父に向かって「自分が家を出たのは、何かを求めたからではなく、悪くなるものから逃げ出すため、自分がいなくなれば万事うまくいく」と、涙ぐむ彼。

 恵まれた環境から抜け出したボビーの苦悩は、何のために生きていくのかという若者の苦悩である。結局最後は、別れも告げず、恋人レイからも去っていく彼。どこへ行くあてもなく、無目的にトレーラーに乗ってしまうところで物語は終わる。

 この映画はハッピーエンドではないし、我々に教訓めいた事を残す訳でもない。むしろ、やるせないラストだが、それが妙に心に残る。青年の苦悩を描いた珠玉の名作だと思う。
イージー・ライダー


1969年 アメリカ・ニューシネマ  当時の世間に受け入れられなかったヒッピーの若者達
監督 : デニス・ホッパー  製作 : ピーター・フォンダ  
脚本 : デニス・ホッパー/ピーター・フォンダ
キャスト : デニス・ホッパー/ピーター・フォンダ/ジャック・ニコルソン
主題歌 : イージー・ライダーのバラード(バーズ)/ワイルドで行こう(ステッペン・ウルフ)

 マリファナの売買で、ちょっとした財産を築いたキャプテン・アメリカ(ピーター・フォンダ)とビリー(デニス・ホッパー)が、ハーレイ・ダビッドソンに跨り、旅に出るところからこの物語は始まる。
町を捨て、時計を捨てる姿は、これからは時間に縛られず、自由気ままに生きていくという、意思表示を示している。
 村から村へとバイクで流す二人だが、途中で酔っぱらいの弁護士ジョージ(ジャック・ニコルソン)と知り合い、3人での旅となる。しかし彼等は、沿道の村人たちに全く受け入れられない。レストランでも歓迎されない。保守的な人々は、彼らの身なりだけで、”胡散臭い”と見るのだ。自分たちとは、全く違う人種、異邦人とみなし、やがて悲劇へと向かっていくことになる。

 マリファナ、人種問題、ベトナム戦争、既存社会に反抗する若者といわゆる常識派で保守的な大人との断絶等、数多くの問題を抱えて喘ぐ”巨大国家アメリカ”の姿をヤングジェネレーションの目を通して余すところなく描いている。

 ジェーン・フォンダを姉に持ち、名優ヘンリー・フォンダの息子であるピーター・フォンダが、初めてプロデュースした作品で、彼の親友デニス・ホッパーも初監督している。脚本も二人で書きあげ、まさに二人が作った作品だ。

 サイケデリックな映像と反体制派ミュージシャンを結集して音と画面を結び付けている。サイクリングシーンに流れる音楽は、ステッペン・ウルフの”プッシャー”に始まり、代表曲”ワイルドで行こう”ザ・バンドの”ウェイト”等、すべてロックであり、当時の10代後半から20代の若者に圧倒的支持を受けた音である。ジミヘンやエレクトリック・フラッグなど、サイケ・ミュージックの走りである。
 しかも驚くのは、ラストシーンに流れる、バーズのリーダー”ロジャー・マッギン”が歌う美しいスローバラード”イージー・ライダーのテーマ”を除き、この映画のために作られた曲ではないということである。ヒット曲を集めたものだが、実に映像とマッチして、我々に訴えかける。ピーターのセンスが窺われる。
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